のんびりといえば聞こえはいいが単にぐうたら、なのです
 スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


 C.Q.    (超長すぎ記事になっちゃいました。。。(>_<))
2008年09月13日 (土) | 編集 |
返してきましたよ!図書館の本フフフ、うまくいった…。

2冊、「古代文明の謎」と「ヴィクトリア朝の性と結婚」は読みきれなくて残念!!
だったけど、悩んだ挙句延長せず。
とってもおもしろかったので、是非読みたかったんだけど、
なんとなく「またの機会に」と思って。
「なにかいいのないかな」「掘り出し物ないかな」と
新しく探す楽しみを優先したくて。

今回はアガサクリスティの「アクロイド殺人事件」のペーパーバック版と
「ユダヤ人の勉強法」 青木偉作著
を借りてきました。LOVE

3連休だし、なんとか読むぞ!


で、その借りてきた本の話や、晩御飯のおかず「鮭ザンギ」の話など、
書きたいことてんこ盛りなのですが、、、、、。

----------stop!!-----------
一旦停止!赤色の車
ここから、下、めっちゃ長く、
行を追うごとに暗くなります。
sesameの個人的な、暗い過去に興味のない方
そんな辛気臭い話はごめんな方
今のうちにUターンして~上
--------------------------


11時頃かな、TVのチャンネルを適当に回してたら
スマップの番組で小林克也が
「アラフォー世代の思い出の曲?ベスト20」みたいなのやってて。

どんぴしゃ世代なので、どんなのかなーーーってちょっと
見入ってしまってたのね。
岡村孝子とかレベッカとか、流行りの曲やら歌謡曲にうとい私でも
なつかしーなーって曲が流れてて。

10位に中島みゆきの 「時代」 が入ってました。

小学校の5年の時かな、ラジオで中島みゆきの「オールナイト日本」を
友達から教えてもらって、みゆき嬢のあまりにも、面白いはじけたDJぶりに
すっかりはまって、それから歌を聴くようになったんだったと
思う。

それまでは、キャンディーズとかピンクレディーとか、山口百恵とか
万人向けアイドルの曲を口ずさむくらいしかしてなくって
歌手の歌をじっくり聴くってことはなかったから、中島みゆきの歌は
衝撃的だった。

あまり聴かない人には、単に 暗い イメージしかないかもしれない。

でも、その頃の私には、子どもなりに心の琴線に触れる歌が多かったのだ。

小学校高学から中学時代、私は、超がつくほどのいじめられっ子だった。 と、思う。
友達は何人かいたけど、みんな他のクラスで、
普段の学校生活のクラス生活では、特に男子と一部の女子にいじめの的に
されていたので、毎日がすごくつらかった事の方が多かった。

まぁ、いるよね。別に悪いことしてるわけじゃないのに、いじめられてしまうタイプの子って。
なんとなく、陰気な雰囲気だったりどこか小動物的なタイプの子だったり。
たぶんいじめてる側の子は、自分がいじめてるという意識ももってなかったんだろうなーー。
でも、あからさまに 「○沢(私の旧姓)菌」とか呼ばれたり、
わたしの筆箱が机から落ちたのをきたないものでも触るようにして
「○沢菌がうつるぞーーー」とか行って、みんなで投げ合って逃げて見せたり、
笛を隠されたり、教科書に落書きされたりは日常茶飯事。
体育の時間は、好きな人同士でペアになって~とかっていう時は、
いつも最後までひとりだった。

まぁ、卒業のころにはぼつぼつ口を聞いてくれる男の子もいたんだけど、
そのままそんな多くのメンバーと同じ高校に進むのは嫌で、
私学に(しかも試験簡単ですんなり入れるのは確実な)逃げ込んだ臆病者
だったから、まぁ、いじめられる要素はどこかしらあったんでしょうね。

で、そんな私が、学校でいじめられて悲しい思いをして家に帰って
聞いてたことが多かったのは、
中島みゆきの 「時代」と「最悪」「誰も悪くはないのに」「ファイト」「やまねこ」って歌だった。
(他にも好きなのはいっぱいあるんだけど、、、、)


♪女に生まれて喜んでくれたのは
 菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
 嵐あけの如月壁の割れた産室
 生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった
 傷つけるための爪だけが
 抜けない棘のように光る
 (そら)からもらった贈り物が
 この爪だけなんて この爪だけなんて♪
   ”やまねこ”より

その日傷ついた心を、その時その時、みゆきのいろんな歌に
のせて慰めてたのかな。

さて、タイトルにあるC.Q.も、中島みゆきの歌です。
自分のことをつらつら書いたけど、
(読み返しも長いわ!でも、まだ先続きそうだから、
 もう、この懐古談に興味無い人はここらで引き返したほうが、、、、^_^;)

この曲、なにかの拍子にふと思い出すことがある。

あ、逆だ。
あることを思い出すと、セットになってるかのように、
この曲が出てくるんだ。心の中で。


それは、私の母のことです。




可哀そうな人だったな。

私の中では、その一言に尽きる。

少なくても、私が生まれてからの母は、
幸せな時間より、不幸な時間の方が長かったに違いない。
そして、不幸なまま死んでしまった。

別に私が母になにかしたわけじゃないんですよ。
非行にはしった訳でもないし、家庭内暴力を起こしてた訳でもない。
むしろ、私は、母が唯一家族の中で心を許していた相手かも。

そう、家族の中で。

たぶん、あの当時、そして彼女が亡くなってからも、
父も姉も私も、母の”心(きもち)”はわかってなかったと思う。

母は病弱で、私が物心ついた時から入退院を繰り返していたので、
一年のうち、家にいないことの方が多かった。
外泊や、退院で家で暮らすようになると、3人で暮らしていた生活のリズムが
とても狂った。
仕事で忙しい父と、多感で遊びたい盛りながら家の切り盛りをしてくれた姉と、
思春期に入りかけの私と。。。
年の離れたその姉が大変しっかりしていて(これが彼女の負担になってしまうことも多いのだが)
3人で暮らしていても私は家の生活にあまり支障を感じることはなかった。
(どれだけ、姉が苦労してたんだろうと、大人になってから感じることは多々。。。)
だから、そこに時々ひょこっと母が帰ってくると、それまで家事を切り盛りしていた姉と
帰ってきた母の間ではっきり目に見えるくらいのジレンマ~(な空気感)生じていた。
おそらく母は、すこしでも父と姉と私に受け入れてもらいたかったんだろう。。。
でも、彼女のやることは私たちには空回りにうつって神経に触ることも多く、、、
結局気づかれから体調をまた崩してそのうち病院に逆戻りというのがお決まりの
毎年のパターンだった。

そんな父と母は、実は大恋愛で結婚したらしい。
生前、一度母からそんな話を聞いたことがあったが、私はまるで本気にはせず
母がすこしでも美しい過去を持ちたい願望から、幼い私に作り話をしたんだと
父が死ぬまで信じ込んでいた。
父が亡くなって、お葬式の時、初めて「ほんとうにそうだったらしいよ。」と姉に聞いたときは
しばらく口をぽかんとあけるほど、驚いた。

いつから、父と母はすれちがうようになったのか。。。。
父は母の生きている間、母よりも仕事に向かっていた。
母はいつも(といっても家にいるときしかしらないが)父を見ていたと思う。
そして、父に自分を見てほしい、話を聞いてほしい、
ただ聞くだけじゃなくて、日々の細かい悩みを共有したり、
家事や育児をお互い助け合ってこなしていったり、、、、。
今では多くの家庭で当たり前なことを望んでいたんだと思う。
父なりには、やっていたのかもしれないが、母の理想とはたぶんかなり違った。

「私の気持ちをわかってくれない!」
母が、よく父に泣いてそのようなことを言っていた。
「夫婦でも、他人なんだから、心の中まではわからん。」
常にそれが父の回答だったように思う。

PTAのことなんだか、ご近所さんとのことなんだか
私のことなんだかわからないが
母が長々と愚痴を重ねると、

父は、
「それが母親の役目やろ。わしに何をせぇっちゅーねん!
わしは仕事してお前たちをたべさせてるんやから
家のことは、母親のお前がやって当然やろ!!!。」
と自分と母の役割にはっきり線引きをしていた。
ケンカがエスカレートしたら、最後には
「ごちゃごちゃ言うな。だれのおかげで飯が食えるとおもってるねん!」

余談だが、私はもし、ダンナがこの言葉を言ったら、その場で即離婚するかもしれない。

今でこそ、夫がこのような言葉を妻にあびせたら、パワハラ発言として
離婚訴訟でも夫に不利な行動となるけれど、
たぶん2~30年前は、日本中でこんな意識のあるお父さんは多かったんじゃないだろうか。
私が子供のころは、まだ団塊の世代多かりしで、
「夫は家族を養うために外でがむしゃらに働き、妻は家庭を守るもの」というのが当たり前で、
共働きの家があるとそこは貧しいとか、かわいそうというイメージが強かった。
だから、父が一概に悪いとは言えない。
父は父なりに仕事でのプレッシャーと日々戦って、母が家にいない時には
それなりにその点でも、いるときはいる時で家庭の空気が微妙なものになり
家や母のことには深く入れないほど
たぶんふらふらだったのだ。

でも、母はたぶん、父に何かをしてほしいと具体的な事を求めていなかったん
だろうと思う。
ただ、「わかるわかる、大変やなぁーーー」と
相槌を打って共感してほしかったのだ。
一番身近な存在であるはずの夫に。
もし、そこで、相槌を打つだけでもなく、少しでも母を思いやって
例えば洗濯を一緒にするとか、料理を作ってあげるとか、
そんなことを月に数回でもしてあげれてたら、母の気持ちもずいぶん楽になったに違いない。
でも、そんな時間は父にはなかった。

あまり記憶はないのだが、たぶん10数年の間で2~3回、母が家にいる時だったが、
父がお好み焼きを家で焼いてくれたことがあった。
あれは、単に父が焼くのが好きだったのか、家庭サービスだったのかわからない。
母も喜んでたかもしれないが、ただ、そんな回数はあまりにも少なかった。

けれど、普段父はあまりにも忙しすぎて、母には目を向けられず、、、、
それがいつからか、父自身のプレッシャーになり、母から目をそむけるようになったのだろう。

かつて、自分からほれ込んだ女性に、そんな仕打ちを心ならずも向けてしまった
父も、やはり、かわいそうだったと思う。

かといって、母も不幸一辺倒だったわけではないだろうと思う。
母の事を常に気遣ってくれる中のよい兄弟もいたし、
(この親戚のおばちゃんたちには、ほんとに母も私も救われた。
 おばちゃんたちがいなければ、母も私も早くにどうにかなっていたかもしれない。。。。
 最近、御無沙汰してごめんなさい。。。。(>_<))

姉と上手くいってる時もたぶんあっただろうし、
病気の軽い、私がまだ幼稚園の頃には、母もしょっちゅうお菓子を作ってくれたり、
毎日お昼を私と姉と楽しく食べたりして、、、、
たぶんあの頃が母の一番幸せな頃だったんじゃないだろうか。。。

でも、すこしずつすこしずつ、家族の歯車がきしみ、ゆがんで、たぶん私が
短大生の頃にはもう、修復は不可能に近い状態だった。

姉は私が高校の頃に結婚して家を出ていて、私が就職してから
結局母が亡くなって(亡くなる半年ほど前には、父ととうとう離婚していた)
それから私たち家族の間では、母のことは封印された。
だれも口にしなくなった。



母の亡くなった時、父とお葬式だけいった。
母方の親戚が挙げてくれた、簡素なお葬式。
一応社会人だったので、私は喪服を着て行った。
喪服は、生前、母が私に買ってくれたものだった。
もうすぐ社会人になるんだから、、、、と
母親として、娘に礼服をちゃんと用意しておきたい、、、
そう思ったのかな。
でも、それが私が唯一、母からもらった形見になった。

その母のお葬式。
終わってから、父が帰り道、
「腹がへったな。食って帰ろう。」
と寄ったところは、吉野家だった。

並みを二つ注文して、二人とも口をきかず、黙々と食べた。
喪服姿の親子連れが、カウンターで牛丼をがっついている姿は、
ちょっと傍目には変わってたかもしれない。

あのとき、父は何を考えてたんだろう。。。。。

今となっては、聞きようもないけど、時々、ふっと思い出す。
夏の暑い日だった。

母が亡くなった少し前、
父は、定年退職をした。
それまでは、仕事仕事で精いっぱいだったのが、
退職後はそれほど忙しくなり、(次の仕事は始めていたが)
急に家庭(といっても私と二人の生活)をむき出した。

洗濯をし、朝夕ごはんをつくり、園芸をはじめた。
仕事に全力投球をしていたときとは大違いで、最初はびっくりした。
毎朝、私のごはんの用意をしてくれる。
どこから仕入れてきたのか、朝はしっかり食べなくてはならない!と
なんだかんだの栄養知識?をふりかざし、
パンにサラダ、目玉焼きに、フルーツまでは良いが、
しゅうまいやらシチューやら、五目豆やら和洋中ごっちゃまぜにいろんな料理が
朝から机の上に目白押しで、(多くは買ってきた惣菜とか、冷凍食品だったG)
食べきらなくては怒られる。。。。
まるで、それこそ母親のようだった。

あと、3年でも父と母がわかれなければ、そして母が生きながらえていたら、
父の変貌につれて父と母も分かり合えたんじゃないか、、、と思う。
そうすれば、彼女も夫と子供と孫(姉の子供が生まれていたので)
と幸せに余生を多少なりとも送れたかもしれない。

母のなくなる数か月前、母から私に電話があった。
母はすでに家を出ていて、どこで暮らしているのか私は知らされてなかった。
そのころ、よく無言電話があったから、たぶん母が私を狙ってかけてきたのだろう。
(父がでると、ぶちって切れていた。わたしはバイトで忙しく、滅多に家の電話を日中
とることがなかった。)

たまたま、日中家にいて、わたしが電話とった。
母は公衆電話からかけてきて、お金がそんなにないのか、早口で
今●●に住んでて、あるマンションの雇われ管理人さんにお世話になっている。
近くに公園もあって、いいところだから一度遊びにおいで。

と明るくうれしそうに私に話しかけてきた。
ただ、わたしは、無言電話を何度もかけてきたり、私にコンタクトを取ろうとしていた
母親がうざくって、
そんなしらんとこ、よういかん。お金ないんやろ。もう切った方がいいんちゃう?
とじゃけんな返事をしただけだった。
それでも、母は私に、
元気でな。風邪引かんように気をつけてな
と何度も言い、電話はその言葉をさえぎるように生返事をしながら
私が切った。



あれが、母と話した最後だった。



C.Q.

C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
だれかいますか だれかいますか だれかいますか どこかには
だれかいますか 生きていますか 聞こえていますか
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
送ってみる 送ってみる あてのない呼びかけを
耳をすます 耳をすます あてのない空へ
ただ人がいることをただ聞いてみたいだけ
なにも欲しがりはしないただ聞いてみたいだけ だれかの頷く声だれかの頷く声
歩いた道のことや 仕事して来たことや
どうでもいいようなことただ聞いてほしいだけ
咲いてた花のことや 拾ったボールのこと
ただ聞いてほしいだけ ただ聞いてほしいだけ

だれかいますか だれかいますか だれかいますか どこかには
だれかいますか 生きていますか 聞こえていますか
突然波が通る 大きな波が通る 呼びかけても応えない大きな波が通る
名前やTel.ナンバー I.D.ナンバー クラスナンバー
そんなことつまらない 私を表さない
どうでもいいようなことただ聞いてほしいだけ
孵ったヒナのことや 好きな人の話
ただ聞いてほしいだけ ただ聞いてほしいだけ
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (C.Q. C.Q.…… )
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (C.Q. C.Q.…… )
……

( COPYRIGHT
JASRACコード 出版者
005-1816-6 ヤマハミュージックパブリッシング )




母はいつでも、聞いてほしかったのだ。
ただただ、きっと聞いてほしかったのだ。 父に。
そして、うなづいてほしかったのだ。
きっと、歌詞のように C.Q.C.Q.と、誰かいますか、、、と
孤独を心の中で叫んでいたのじゃないか。。。。

母を思い出すたび、この曲がセットになって
私の頭のなかで再生される。

C.Q.C.Q.、、、、、
母はいつも、そう、遭難信号を出すかのように、求めていたのではないか。



母のお墓の場所は知らない。
父も姉も参ったことはないと思う。
毎年お墓参りをしてくれていた、おばちゃんたちも高齢になってきたので
お墓の場所を聞いておかねばと思う。
今すぐには無理だけれど、
いずれ子供たちを連れて、会いにいってみようかと思う。





あの世では幸せになっていて、
CQCQ、、、、と
遭難信号を出してなければいいんだけれど、、、、、。。。。


切に願わずには、いられない。

























スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
おかあさんの思い出はいつまでも消えないよ!
お母さんもいつまでも忘れないよsesame,の事!
墓参りして、子供たち見せて挙げないとね!
2008/09/24(水) 23:14:21 | URL | たける #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。