のんびりといえば聞こえはいいが単にぐうたら、なのです
 スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


 C.Q.    (超長すぎ記事になっちゃいました。。。(>_<))
2008年09月13日 (土) | 編集 |
返してきましたよ!図書館の本フフフ、うまくいった…。

2冊、「古代文明の謎」と「ヴィクトリア朝の性と結婚」は読みきれなくて残念!!
だったけど、悩んだ挙句延長せず。
とってもおもしろかったので、是非読みたかったんだけど、
なんとなく「またの機会に」と思って。
「なにかいいのないかな」「掘り出し物ないかな」と
新しく探す楽しみを優先したくて。

今回はアガサクリスティの「アクロイド殺人事件」のペーパーバック版と
「ユダヤ人の勉強法」 青木偉作著
を借りてきました。LOVE

3連休だし、なんとか読むぞ!


で、その借りてきた本の話や、晩御飯のおかず「鮭ザンギ」の話など、
書きたいことてんこ盛りなのですが、、、、、。

----------stop!!-----------
一旦停止!赤色の車
ここから、下、めっちゃ長く、
行を追うごとに暗くなります。
sesameの個人的な、暗い過去に興味のない方
そんな辛気臭い話はごめんな方
今のうちにUターンして~上
--------------------------


11時頃かな、TVのチャンネルを適当に回してたら
スマップの番組で小林克也が
「アラフォー世代の思い出の曲?ベスト20」みたいなのやってて。

どんぴしゃ世代なので、どんなのかなーーーってちょっと
見入ってしまってたのね。
岡村孝子とかレベッカとか、流行りの曲やら歌謡曲にうとい私でも
なつかしーなーって曲が流れてて。

10位に中島みゆきの 「時代」 が入ってました。

小学校の5年の時かな、ラジオで中島みゆきの「オールナイト日本」を
友達から教えてもらって、みゆき嬢のあまりにも、面白いはじけたDJぶりに
すっかりはまって、それから歌を聴くようになったんだったと
思う。

それまでは、キャンディーズとかピンクレディーとか、山口百恵とか
万人向けアイドルの曲を口ずさむくらいしかしてなくって
歌手の歌をじっくり聴くってことはなかったから、中島みゆきの歌は
衝撃的だった。

あまり聴かない人には、単に 暗い イメージしかないかもしれない。

でも、その頃の私には、子どもなりに心の琴線に触れる歌が多かったのだ。

小学校高学から中学時代、私は、超がつくほどのいじめられっ子だった。 と、思う。
友達は何人かいたけど、みんな他のクラスで、
普段の学校生活のクラス生活では、特に男子と一部の女子にいじめの的に
されていたので、毎日がすごくつらかった事の方が多かった。

まぁ、いるよね。別に悪いことしてるわけじゃないのに、いじめられてしまうタイプの子って。
なんとなく、陰気な雰囲気だったりどこか小動物的なタイプの子だったり。
たぶんいじめてる側の子は、自分がいじめてるという意識ももってなかったんだろうなーー。
でも、あからさまに 「○沢(私の旧姓)菌」とか呼ばれたり、
わたしの筆箱が机から落ちたのをきたないものでも触るようにして
「○沢菌がうつるぞーーー」とか行って、みんなで投げ合って逃げて見せたり、
笛を隠されたり、教科書に落書きされたりは日常茶飯事。
体育の時間は、好きな人同士でペアになって~とかっていう時は、
いつも最後までひとりだった。

まぁ、卒業のころにはぼつぼつ口を聞いてくれる男の子もいたんだけど、
そのままそんな多くのメンバーと同じ高校に進むのは嫌で、
私学に(しかも試験簡単ですんなり入れるのは確実な)逃げ込んだ臆病者
だったから、まぁ、いじめられる要素はどこかしらあったんでしょうね。

で、そんな私が、学校でいじめられて悲しい思いをして家に帰って
聞いてたことが多かったのは、
中島みゆきの 「時代」と「最悪」「誰も悪くはないのに」「ファイト」「やまねこ」って歌だった。
(他にも好きなのはいっぱいあるんだけど、、、、)


♪女に生まれて喜んでくれたのは
 菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
 嵐あけの如月壁の割れた産室
 生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった
 傷つけるための爪だけが
 抜けない棘のように光る
 (そら)からもらった贈り物が
 この爪だけなんて この爪だけなんて♪
   ”やまねこ”より

その日傷ついた心を、その時その時、みゆきのいろんな歌に
のせて慰めてたのかな。

さて、タイトルにあるC.Q.も、中島みゆきの歌です。
自分のことをつらつら書いたけど、
(読み返しも長いわ!でも、まだ先続きそうだから、
 もう、この懐古談に興味無い人はここらで引き返したほうが、、、、^_^;)

この曲、なにかの拍子にふと思い出すことがある。

あ、逆だ。
あることを思い出すと、セットになってるかのように、
この曲が出てくるんだ。心の中で。


それは、私の母のことです。




可哀そうな人だったな。

私の中では、その一言に尽きる。

少なくても、私が生まれてからの母は、
幸せな時間より、不幸な時間の方が長かったに違いない。
そして、不幸なまま死んでしまった。

別に私が母になにかしたわけじゃないんですよ。
非行にはしった訳でもないし、家庭内暴力を起こしてた訳でもない。
むしろ、私は、母が唯一家族の中で心を許していた相手かも。

そう、家族の中で。

たぶん、あの当時、そして彼女が亡くなってからも、
父も姉も私も、母の”心(きもち)”はわかってなかったと思う。

母は病弱で、私が物心ついた時から入退院を繰り返していたので、
一年のうち、家にいないことの方が多かった。
外泊や、退院で家で暮らすようになると、3人で暮らしていた生活のリズムが
とても狂った。
仕事で忙しい父と、多感で遊びたい盛りながら家の切り盛りをしてくれた姉と、
思春期に入りかけの私と。。。
年の離れたその姉が大変しっかりしていて(これが彼女の負担になってしまうことも多いのだが)
3人で暮らしていても私は家の生活にあまり支障を感じることはなかった。
(どれだけ、姉が苦労してたんだろうと、大人になってから感じることは多々。。。)
だから、そこに時々ひょこっと母が帰ってくると、それまで家事を切り盛りしていた姉と
帰ってきた母の間ではっきり目に見えるくらいのジレンマ~(な空気感)生じていた。
おそらく母は、すこしでも父と姉と私に受け入れてもらいたかったんだろう。。。
でも、彼女のやることは私たちには空回りにうつって神経に触ることも多く、、、
結局気づかれから体調をまた崩してそのうち病院に逆戻りというのがお決まりの
毎年のパターンだった。

そんな父と母は、実は大恋愛で結婚したらしい。
生前、一度母からそんな話を聞いたことがあったが、私はまるで本気にはせず
母がすこしでも美しい過去を持ちたい願望から、幼い私に作り話をしたんだと
父が死ぬまで信じ込んでいた。
父が亡くなって、お葬式の時、初めて「ほんとうにそうだったらしいよ。」と姉に聞いたときは
しばらく口をぽかんとあけるほど、驚いた。

いつから、父と母はすれちがうようになったのか。。。。
父は母の生きている間、母よりも仕事に向かっていた。
母はいつも(といっても家にいるときしかしらないが)父を見ていたと思う。
そして、父に自分を見てほしい、話を聞いてほしい、
ただ聞くだけじゃなくて、日々の細かい悩みを共有したり、
家事や育児をお互い助け合ってこなしていったり、、、、。
今では多くの家庭で当たり前なことを望んでいたんだと思う。
父なりには、やっていたのかもしれないが、母の理想とはたぶんかなり違った。

「私の気持ちをわかってくれない!」
母が、よく父に泣いてそのようなことを言っていた。
「夫婦でも、他人なんだから、心の中まではわからん。」
常にそれが父の回答だったように思う。

PTAのことなんだか、ご近所さんとのことなんだか
私のことなんだかわからないが
母が長々と愚痴を重ねると、

父は、
「それが母親の役目やろ。わしに何をせぇっちゅーねん!
わしは仕事してお前たちをたべさせてるんやから
家のことは、母親のお前がやって当然やろ!!!。」
と自分と母の役割にはっきり線引きをしていた。
ケンカがエスカレートしたら、最後には
「ごちゃごちゃ言うな。だれのおかげで飯が食えるとおもってるねん!」

余談だが、私はもし、ダンナがこの言葉を言ったら、その場で即離婚するかもしれない。

今でこそ、夫がこのような言葉を妻にあびせたら、パワハラ発言として
離婚訴訟でも夫に不利な行動となるけれど、
たぶん2~30年前は、日本中でこんな意識のあるお父さんは多かったんじゃないだろうか。
私が子供のころは、まだ団塊の世代多かりしで、
「夫は家族を養うために外でがむしゃらに働き、妻は家庭を守るもの」というのが当たり前で、
共働きの家があるとそこは貧しいとか、かわいそうというイメージが強かった。
だから、父が一概に悪いとは言えない。
父は父なりに仕事でのプレッシャーと日々戦って、母が家にいない時には
それなりにその点でも、いるときはいる時で家庭の空気が微妙なものになり
家や母のことには深く入れないほど
たぶんふらふらだったのだ。

でも、母はたぶん、父に何かをしてほしいと具体的な事を求めていなかったん
だろうと思う。
ただ、「わかるわかる、大変やなぁーーー」と
相槌を打って共感してほしかったのだ。
一番身近な存在であるはずの夫に。
もし、そこで、相槌を打つだけでもなく、少しでも母を思いやって
例えば洗濯を一緒にするとか、料理を作ってあげるとか、
そんなことを月に数回でもしてあげれてたら、母の気持ちもずいぶん楽になったに違いない。
でも、そんな時間は父にはなかった。

あまり記憶はないのだが、たぶん10数年の間で2~3回、母が家にいる時だったが、
父がお好み焼きを家で焼いてくれたことがあった。
あれは、単に父が焼くのが好きだったのか、家庭サービスだったのかわからない。
母も喜んでたかもしれないが、ただ、そんな回数はあまりにも少なかった。

けれど、普段父はあまりにも忙しすぎて、母には目を向けられず、、、、
それがいつからか、父自身のプレッシャーになり、母から目をそむけるようになったのだろう。

かつて、自分からほれ込んだ女性に、そんな仕打ちを心ならずも向けてしまった
父も、やはり、かわいそうだったと思う。

かといって、母も不幸一辺倒だったわけではないだろうと思う。
母の事を常に気遣ってくれる中のよい兄弟もいたし、
(この親戚のおばちゃんたちには、ほんとに母も私も救われた。
 おばちゃんたちがいなければ、母も私も早くにどうにかなっていたかもしれない。。。。
 最近、御無沙汰してごめんなさい。。。。(>_<))

姉と上手くいってる時もたぶんあっただろうし、
病気の軽い、私がまだ幼稚園の頃には、母もしょっちゅうお菓子を作ってくれたり、
毎日お昼を私と姉と楽しく食べたりして、、、、
たぶんあの頃が母の一番幸せな頃だったんじゃないだろうか。。。

でも、すこしずつすこしずつ、家族の歯車がきしみ、ゆがんで、たぶん私が
短大生の頃にはもう、修復は不可能に近い状態だった。

姉は私が高校の頃に結婚して家を出ていて、私が就職してから
結局母が亡くなって(亡くなる半年ほど前には、父ととうとう離婚していた)
それから私たち家族の間では、母のことは封印された。
だれも口にしなくなった。



母の亡くなった時、父とお葬式だけいった。
母方の親戚が挙げてくれた、簡素なお葬式。
一応社会人だったので、私は喪服を着て行った。
喪服は、生前、母が私に買ってくれたものだった。
もうすぐ社会人になるんだから、、、、と
母親として、娘に礼服をちゃんと用意しておきたい、、、
そう思ったのかな。
でも、それが私が唯一、母からもらった形見になった。

その母のお葬式。
終わってから、父が帰り道、
「腹がへったな。食って帰ろう。」
と寄ったところは、吉野家だった。

並みを二つ注文して、二人とも口をきかず、黙々と食べた。
喪服姿の親子連れが、カウンターで牛丼をがっついている姿は、
ちょっと傍目には変わってたかもしれない。

あのとき、父は何を考えてたんだろう。。。。。

今となっては、聞きようもないけど、時々、ふっと思い出す。
夏の暑い日だった。

母が亡くなった少し前、
父は、定年退職をした。
それまでは、仕事仕事で精いっぱいだったのが、
退職後はそれほど忙しくなり、(次の仕事は始めていたが)
急に家庭(といっても私と二人の生活)をむき出した。

洗濯をし、朝夕ごはんをつくり、園芸をはじめた。
仕事に全力投球をしていたときとは大違いで、最初はびっくりした。
毎朝、私のごはんの用意をしてくれる。
どこから仕入れてきたのか、朝はしっかり食べなくてはならない!と
なんだかんだの栄養知識?をふりかざし、
パンにサラダ、目玉焼きに、フルーツまでは良いが、
しゅうまいやらシチューやら、五目豆やら和洋中ごっちゃまぜにいろんな料理が
朝から机の上に目白押しで、(多くは買ってきた惣菜とか、冷凍食品だったG)
食べきらなくては怒られる。。。。
まるで、それこそ母親のようだった。

あと、3年でも父と母がわかれなければ、そして母が生きながらえていたら、
父の変貌につれて父と母も分かり合えたんじゃないか、、、と思う。
そうすれば、彼女も夫と子供と孫(姉の子供が生まれていたので)
と幸せに余生を多少なりとも送れたかもしれない。

母のなくなる数か月前、母から私に電話があった。
母はすでに家を出ていて、どこで暮らしているのか私は知らされてなかった。
そのころ、よく無言電話があったから、たぶん母が私を狙ってかけてきたのだろう。
(父がでると、ぶちって切れていた。わたしはバイトで忙しく、滅多に家の電話を日中
とることがなかった。)

たまたま、日中家にいて、わたしが電話とった。
母は公衆電話からかけてきて、お金がそんなにないのか、早口で
今●●に住んでて、あるマンションの雇われ管理人さんにお世話になっている。
近くに公園もあって、いいところだから一度遊びにおいで。

と明るくうれしそうに私に話しかけてきた。
ただ、わたしは、無言電話を何度もかけてきたり、私にコンタクトを取ろうとしていた
母親がうざくって、
そんなしらんとこ、よういかん。お金ないんやろ。もう切った方がいいんちゃう?
とじゃけんな返事をしただけだった。
それでも、母は私に、
元気でな。風邪引かんように気をつけてな
と何度も言い、電話はその言葉をさえぎるように生返事をしながら
私が切った。



あれが、母と話した最後だった。



C.Q.

C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
だれかいますか だれかいますか だれかいますか どこかには
だれかいますか 生きていますか 聞こえていますか
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
C.Q. C.Q.…… C.Q. C.Q.……
送ってみる 送ってみる あてのない呼びかけを
耳をすます 耳をすます あてのない空へ
ただ人がいることをただ聞いてみたいだけ
なにも欲しがりはしないただ聞いてみたいだけ だれかの頷く声だれかの頷く声
歩いた道のことや 仕事して来たことや
どうでもいいようなことただ聞いてほしいだけ
咲いてた花のことや 拾ったボールのこと
ただ聞いてほしいだけ ただ聞いてほしいだけ

だれかいますか だれかいますか だれかいますか どこかには
だれかいますか 生きていますか 聞こえていますか
突然波が通る 大きな波が通る 呼びかけても応えない大きな波が通る
名前やTel.ナンバー I.D.ナンバー クラスナンバー
そんなことつまらない 私を表さない
どうでもいいようなことただ聞いてほしいだけ
孵ったヒナのことや 好きな人の話
ただ聞いてほしいだけ ただ聞いてほしいだけ
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (C.Q. C.Q.…… )
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (だれかいますか)
C.Q. C.Q.…… (C.Q. C.Q.…… )
……

( COPYRIGHT
JASRACコード 出版者
005-1816-6 ヤマハミュージックパブリッシング )




母はいつでも、聞いてほしかったのだ。
ただただ、きっと聞いてほしかったのだ。 父に。
そして、うなづいてほしかったのだ。
きっと、歌詞のように C.Q.C.Q.と、誰かいますか、、、と
孤独を心の中で叫んでいたのじゃないか。。。。

母を思い出すたび、この曲がセットになって
私の頭のなかで再生される。

C.Q.C.Q.、、、、、
母はいつも、そう、遭難信号を出すかのように、求めていたのではないか。



母のお墓の場所は知らない。
父も姉も参ったことはないと思う。
毎年お墓参りをしてくれていた、おばちゃんたちも高齢になってきたので
お墓の場所を聞いておかねばと思う。
今すぐには無理だけれど、
いずれ子供たちを連れて、会いにいってみようかと思う。





あの世では幸せになっていて、
CQCQ、、、、と
遭難信号を出してなければいいんだけれど、、、、、。。。。


切に願わずには、いられない。


























スポンサーサイト

 まさに忘れ形見、、、。
2006年02月09日 (木) | 編集 |
おはようございます。昨日は、午前中みぞれまじりの雪がふり、びっくりでした。しかし、元気な我が家の長男(ふう)は、「今日は暑かったぁ~」と空手から帰ってきてのたまっておりました。、、、、。

さてさて、唐突な話題ですが、
以前TVで犯罪被害者の方のご遺族が、無念にも亡くなった方の遺骨をダイアモンドに加工して身につけられているという報道を読み、
そんなことができるんだぁ、、、、とびっくりしたことがありました。

ネットで検索すると、ダイアモンドはスイスの会社とアメリカの会社が。ダイアモンドでなくても遺骨をきれいな宝石風の指輪やシルバーペンダントに加工してくれる会社が日本にもあることが分かりました。
ダイアモンドだと値段が40万~カラットによっては目の玉の飛び出るような金額になるのですが、指輪やペンダントだとお手ごろ価格でした。

ペンダントを作ってくれる会社↓ ほかに、お骨を入れたテディベアや散骨式なども扱ってくれます。

http://www.1step.co.jp/mirai/index.htm

テディベアは、お父さんを亡くされた小さなお子さんにはいいかもしれないですね。寝るときに、いつも抱き合って一緒にいられますもんね。

あの、石原まきこさんも石原裕次郎さんの遺骨でペンダントを作ったとか。

このブログにも少しずつアップしているのですが、最近、父が亡くなりました。今、父がわずかの期間暮らしたマンションの和室の仏壇に父の遺影と小さな壷入りの遺骨が置かれています。父は生前戒名を頂いていて無宗教葬で送り出したので、位牌はありません。
父の部屋に行くと、ついつい遺影に向かって父に話しかけてしまうのですが、頭の片隅で「でもこれはただの写真だしな、ここにいるわけじゃないしな。」とどこか冷静につっこんでしまう自分が。。。

父の部屋は賃貸なので、近いうちに引き渡さないといけません。
仏壇は姉の家においてもらえることになりそうですが、家族を率いて姉の家にしょっちゅう父に会いに行くわけにも行かず。。。。
(姉の家も、そんなに広くはないマンションなので。うちよりは広くてうらやましいけど、、、、(^_^;))
この先ずっと、なんの親孝行もできなかった分だけ、父を身近に感じる方法はないか、と思っていたところ、前述のTV報道を見たので、本気で購入を考えました。

と、いってもダイアモンドは無理!きれいだけど、お値段高すぎ。

自分の骨がきらきらのダイアモンドなんかになっていることを父が知ったらば、、、、あの世で、恥ずかしさの余り柄にもなく走り出しているかも。。。(;^_^A
あれは、やっぱり恋人とか旦那様とか、幼くして亡くした子供さんとか、、、、そんな感じでつくるんでしょうね。

指輪とペンダント、いいかなぁ、、、。

私のことなので、ずーっと身に着けていても絶対どっかでなくしてしまうので、予備も含めて二つは必要か?

まだ、49日もあけ切らず、
父の死後の整理(荷物の整理、会葬に来てくださった方へのお礼、貯金やなんかの解約手続き、父の所得税の申告、相続税の申告、その他の遺産手続きetc)が目白押しなので、中々手が回りそうにないですが。

骨が菩提寺に収まってしまう前に、ねえちゃんに頼んで、お骨を少し分けてもらわないと、、。



と、朝からディープな話題で失礼しました!(^_^)/~~
[READ MORE...]
 ブログ再開!今後とも宜しくお願いします。
2006年02月03日 (金) | 編集 |
、、、とさっき書いて投稿したはずなのに、、、、。なぜか更新されてない。。。
yahooブログは重い、、、って聞いてたけど、そのせい?
(注:この記事はお引越し元のyahooブログからの転載です。)更新ボタン押して、一安心、、、で、他の作業したら、更新中の内容がどっかに飛んでれら~みたいな?
それとも、会社で私のさぼりを察知して強制削除???おおこわぁ(@_@;)
(ま、そこまで会社もヒマではないと思ふのだが^_^;)
すみません、仕事中です。m(_ _)m。社長、ちょっと一段落着いたんです。。。

さてさて、長らくお休みしてしまいました。
1月22日夕方、父が亡くなってしまいました。。。
(いきなりシビアな話しになってごめんなさい。)
その後、お通夜、お葬式と息つく暇もなく。。。
喪主は姉だったので、彼女は一番大変だったのですが。
(下の子は、お通夜の日にインフルエンザにかかって倒れちゃうし。。。)

心情的にも、物理的にも、
あらゆる意味で人が一人亡くなるって、ほんとに ほんとに 大変なことなのですね。

父が亡くなる瞬間のこと、、、
亡くなった後のこと、、、
お通夜とお葬式にちょっと笑えるシュールな出来事、、、、。

また、少しずつ書き出してみたいと思います。

デスコミュニケーション(デスエデュケションとも言うそうです。)
=身近な人の死を通じて、なにかを感じ取る(学び取る)=
のことを前回書きましたが、
残念ながら、孫は誰もじいじの最後の瞬間に立ち会うことは
できませんでした。

でも、いまわの際まで苦しんで、最後に血を吐いて死んでしまった
じいじの顔は、孫達は見なくて良かったのかもしれません。
コミュニケーションを図るには、あまりにも過酷な最期でした。

最後にじいじが がっと首をのけぞらせて
目を見開いたその瞬間、
その瞬間を私とじいじの視線が合いました。

じいじが最後に私のことを分かってくれたかどうか。。。

私は一瞬えもいわれぬ感覚に襲われ、体が凍りつき、
その気配を察知した義兄か姉のどちらかがナースコールをしてくれました。
看護士さんが飛んできて、手当てをしてくれている間
私と姉も必死にじいじの腕や足をマッサージし、呼びかけましたが、
そのまま、次第に、波形の振幅が少なくなり、ついには
完全に平坦になってしまいました。

休日だったため、当直の先生の到着が少し遅れて、
じいじの死亡が正式確認されたのは夕方4時22分でしたが、
恐らく4時10分頃には事切れていたんだと思います。
その時間には、波形はまっすぐでしたから。

人は死んだ瞬間から少しの間、魂がその場に漂うと聞いた事があります。
私達が、じいじの体をマッサージしている間、彼は
天井からその様子を見ることが出来たのでしょうか?
少しでも、楽になっていたのでしょうか?

じいじ、いつでも良いので、たまには枕元に来てね。
まだ、49日も済んでないからね。


父が亡くなった瞬間も、直後も、今に至る間も
なぜか私は大泣きすることはありませんでした。

父はしめっぽいこと、ぎょうぎょうしいことが嫌いな人だったので、
私もその血を受け継いでいるのかな。

なので、気を取り直して、ブログの更新も頑張って行きたいと思います。
じいじのことは、胸深く、ひっそりと横たえて。
このブログのタイトルは、『バトルデイリー』。
心の葛藤も バトル の一つ。
ひとつひとつのバトルをやりすごして、新しい一日を
毎日迎えなくてはなりません。


さて、今日は節分です。
帰りにスーパーに寄って、値下げしたお寿司を買って、
景気よくかぶりつきましょう!

今年の幸運を願って!


 人の命、、、②。デスコミュニケーションということ。
2006年01月19日 (木) | 編集 |
父の状況が予断を許さないので、忙しい姉が(自宅と病院が少し近いこともあって。)、仕事の合間を縫ってと夜に付き添ってくれています。昨日は、黄疸と肝機能障害がでてきたそう。今日からさらに肝臓への治療(点滴治療)も追加されます。

長男(ふう)は、結構父に世話になりました。
私の母は既に他界しており、(ふう)が病気になって続けて保育園を休む時など、朝4時位に急遽私がヘルプの電話をかけると、文句も言わずに、バス、電車、バスを乗り継いで、冬でもやってきてくれました。マイペースであまり物事やその場の雰囲気を気にしない性質で、時にはイライラさせられることもあったけど、一緒に居て居心地のよい人でした。だから、小さい子供でも、二人だけでお留守番するのにすっとなじめたのでしょう。。。

病院にいてくれる姉によると、まだしゃべれるけど、家族の顔と看護士さんの見分けもつかなくなっているそうです。眠りについている時間が多くなってきたようです。
私は、父の声が聞ける内に(ふう)をそばに連れていってやりたいと思い、明日の夜に連れて行くつもりにしています。

その上で。悲しいことですが、(ふう)に出来るだけ、「お別れの瞬間」に立ち会ってもらいたいと願っています。

目の前で人が死ぬ その瞬間。
肉親が命を亡くすということ。

まだ、死生感をつけるには早すぎる7歳の子供には大変ショックなことかもしれませんが、
そこから何かを学び取って欲しいと思います。
はっきりわからなくても、感じるだけでも。

じいじ(父)が彼にしてやれる、最後のお世話だと思うのです。




同じ事を姉も考えていたようで、自分の子供達にもその瞬間に間に合って欲しいと姉からメールをもらいました。彼女は、仕事でもありますが、介護のことや精神カウンセリングに大変興味を持っていて、セミナーや各種勉強会、研修会に積極的に参加しています。そういうところで教わったそうですが
死にゆく人の最後の瞬間に立ち会うことを

デス・コミュニケーション

というのだそうです。
悲しいけれど、その悲しみも含めて、ほんとに貴重な、何事にも変えがたい
コミュニケーションだと思います。


 人の命、、、
2006年01月18日 (水) | 編集 |
昨日は、更新お休みしてしまいました。

昨日は元々、入院中の私の父を外出させる予定で午後から仕事を休んで、だんなと共に病院に向かっていました。病院には先に姉が着いていたのですが、父がどうもかなりしんどそうなので、「今日は外出は見合わせよう」ということになりました。

父の主治医の先生が、病状の説明をしてくださることになり。。。。

病院から帰途につくころには、父の状態と先生の現状説明と今後の治療内容から鑑みて
恐らく、持って、数ヶ月、しかしいつ急変することになるかもしれない

という状態であることは、私もだんなも理解していました。

先生からは万が一の際の「延命処置」をご家族としてどこまで希望されるか、
考えておいて欲しい との話もありました。
具体的なことを言うと、延命処置は 主に 人工呼吸器を指すとのこと。
「ご家族としては、出来うる限りの措置をと望まれて、人工呼吸器もつけられる方もいらっしゃいます。ただ、つけてしまうと絶対に外すことは出来ません。」
と念押しされました。

人工呼吸器は、意識の無くなった人を文字通り、延命するために、
あるいはその処置によって回復が多少なりともみこまれるような
人にわざと意識を失わせて、器官に管をいれるんだそうです。
(意識を失わせるのは、そうでないとそれだけ苦痛だからなのでしょう。)

父に残された家族は、私と姉だけ。なので、姉とその点についてお互いの意思を確認しておくことになりました。私も姉も忙しく(姉は私の数十倍忙しいですが)中々顔をあわせられないということと
なにか質問事項があれば、その場で先生に聞けるうちにというのと、
あまりにも父の状態が逼迫してるので。

姉の気持ちは、
「万が一急変の時でも、枕元に家族が集まるのに間に合うようには救命措置をしてほしい。ただ、苦しいだけの延命治療は本人も望んでいないだろう」

父も意識のあるとき、それこそ10年も前くらいから
「死ぬときは、ぽっくり逝きたい」が口癖だったし、元々マイペースでめんどくさいこと大嫌いな性格から本人にもし「どうしたい?」と聞くようなことがあったら、姉と同じ答えかもしれないと
わたしはぼんやり思いました。
でも、ここで「そうだね」と私がいってしまうと、父の命が短いところで止まってしまうようでどうしても割り切れないものも。。。。
私は延命治療というものに少し期待を抱いていて、
それを(人工呼吸器)をつけていたら、いまは朦朧としている父の意識が、はっきり戻って、彼が肉親に最後のお別れができるんじゃないか、なにか言い残したい言葉、肉親に伝えたい言葉(それはなんでもいいんです。)があるかもしれないのに、それを伝えずに彼の人生を閉じてしまうのはあまりにも酷じゃないか、、、との思いがあり、姉と少し意見が違っていました。
姉がもう一度、私の気持ちを先生に伝えてくれて、私からは「今の年齢と病状と併発している余病の状態とから鑑みて、人工呼吸器をつけた後、意識がもどって私たちと話が出来る可能性はどれくらいあるのか」と質問。
先生は、慎重に言葉を選びながら、「もちろん0%ではない。しかし、総合すると非常に厳しい。。。」

先生としては断言できない事柄なのは承知していましたから、それを聞いて、やはり無理な延命治療は父には酷かなという結論に私も内心、かたまりつつありました。
ただ、先生も、今この場で結論は無理でしょうから、、、と、
姉は、ほんとにいざというときにその場で、決めたらいいと思うよ。と言ってくれたので、
その場では決まりませんでした。

いつかは決めなければいけない、けれど、とても難しい選択です。

私は、自分自身はとても生命欲が激しいと自負しています。
もし、自分に万が一があって、人工呼吸器の選択を迫られたときは、
植物人間状態になっても、生かしておいて欲しい、、、と思っています。
それがたとえ、苦しいことであっても、みじめなつらいことであっても、生きているからこそですもの。
でも、わたしはどんな状態になっても、ほんとは永遠に生きたい
と思ってるくらい。
家族に迷惑をかけるかもしれません。でも、なにかのきっかけで、意識が戻ったりすることができるかもしれない。その可能性が0.001%でも残っているうちは、生きさせて欲しいと思います。

わたしのだんなや姉は、万が一自分がそうなったら
家族に迷惑かけてまで、無理に生かして欲しくない。という意見でした。

(そろそろ、子供たちとだんなを起こさねば、、、、また、続きを今度書きたいと思います。)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。